せっぱつまりこ’s blog

宮城県仙台市及び近郊を中心とした、東北地方の様々な情報について書こうと思います。

山形市、実は広島市と(少し)そっくりだった!?

今回は宮城県でなく、お隣の山形県の県庁所在地「山形市」について書こうと思います。

 

ところで突然ですが、東北地方の県庁所在地の中で太平洋戦争の際に唯一本格的な爆撃を受けなかったのは、山形市です(本格的な爆撃の予定はありましたが、爆撃を受ける直前に終戦を迎えました。その意味では、なかなか強運な街です)。

 

そのため、山形市は他県の県庁所在地に比べ、戦前の建物や街並み・区画が残っている率が高いのですが、そうしたものを見ていきますと、実は山形市は、太平洋戦争で原爆投下を受けなかった場合の広島市と、共通点が幾つか(といっても私が気付いた限りでは2点ですが)あります。

 

1・古くから栄えていた街の中心部に大型の洋風建築があり、それは公共機関の建物である。

広島市にある有名な原爆ドームは、被曝以前は「産業奨励館」という物産館であったことは(特に日本近現代史や建築史のお好きな方には)割と知られています。

一方、山形市にも「文翔館」という往時の県議会の会場であった建物が現存しており、驚いたことに今も時々イベント会場になったりします。

f:id:seppatsumariko:20170703010600j:plain

こちらがその文翔館の写真ですが、まさにそのイベントを観覧に行った際撮影したのでこのような角度になってしまいました。もし広島市が原爆投下を受けなかったら、原爆ドームも今頃はこんな雰囲気だったことでしょう。

 

2・これ又古くから栄えていた街の中心部に、「平城」タイプの城址がある。

広島市山形市は、どちらも城下町として発展してきた歴史があります。

広島城はいわゆる「平城」タイプの城址ですが、山形城も同じく「平城」タイプでした。

国指定史跡山形城跡「霞城公園」 — 山形市役所

なお、私が現在住んでおります仙台市にある仙台城は、「山城」タイプです(「平城」「山城」などの専門用語は、検索されるか、はてなキーワードにリンクできたらそちらをご参照下さい)。

 

 

 

幻の磁器「切込焼」について(完結編)

随分間が空いてしまい申し訳ございませんが、現在の宮城県加美町に伝わる伝統工芸品の一つである磁器の「切込焼(きりごめやき)」についての記事を、ようやく完結させようと思います。

 

なおお断りしておきますが、今回はどちらかというと近代日本の工芸史寄りの内容が多く、東北の歴史や文化とは余り関係がないくだりが中心に出て参ります。ですから、東北の歴史・文化についての記事を期待しておいでの方は、今のうちにそっ閉じされることをお勧めします。

 

明治時代の極めて初期、切込焼の歴史は一度断絶してしまいました。

 

伊達家による統治の時代が終わったことや、切込焼職人コミュニティの間でも長老や経済的支援者たちが次々に亡くなったことなども、切込焼の衰退を早めてしまった要因でもありました。

 

しかし、大正時代の後半に加美町の事業家たちによって、切込焼は短期間ではありますが再興しました。結局昭和初期の世界恐慌のために衰退してしまいましたが、海外への輸出も視野に入れられた壮大なプロジェクトであったもようです。この時期の作品を、特に「大正窯」と呼びます。

 

そもそも大正時代〜昭和初期頃は、それまでは現代でいうテクノロジーの領域で扱われ、公募展なども美術ジャンルでなくいわゆる商工展の一環として行われていた陶磁器やその他様々な工芸が、「工芸美術」という新しいカテゴリーの美術として扱われるようになった時期でもありました。

 

又全国的にみても、昭和初期頃には桃山時代〜江戸初期に栄え、その後長くロストテクノロジーとなっていた陶芸である「志野」や「織部」「唐津」などが、陶芸家有志によって復興されています(現在いわゆる伝統的工芸品として著名な陶磁器の中には、一度長くロストテクノロジー化していた歴史があり、この動きの中で復興されたものも案外多くあります)。こうした動きも、大正期の切込焼復興の背景としては見逃せません。

 

<参考文献>

切込焼記念館 - 加美町

木田拓也『工芸とナショナリズムの近代 「日本的なもの」の創出』吉川弘文館、2014

 

 

 

幻の磁器「切込焼」について(2)

少し日が開いてしまいましたが、現在の宮城県加美町に伝わる伝統的工芸品である「切込焼(きりごめやき)についての話の続きを書きます。

 

前回の記事の末尾で、切込焼が幕末〜明治初期に衰退したということに言及致しました。理由には幾つかありますが、中でも大きな理由としては矢張り明治維新による廃藩置県によって、切込焼生産をバックアップした伊達家による統治の時代が終わったということが挙げられます。又切込焼職人のコミュニティや彼らの周囲でも、最盛期の頃から活躍した経験豊富なリーダーが亡くなったり、彼らを経済的にバックアップした豪商が亡くなるなど、頼れる人々が次々に寿命を迎えたことも重なりました。

 

そうした中、明治直前の慶応年間には、切込焼の藩による直営窯が現在の仙台市内の北六番丁(JR仙山線東照宮駅の南側)に移ったことがわかっています。その理由は不明ですが、(これは私の想像ではありますが)この地域から余り遠くない場所(JR仙山線及び仙台市営地下鉄北仙台駅の近く)にこれ又伝統的工芸品の一つである「堤焼(つつみやき。陶器や土人形が作られています)」の拠点があることとも、無関係ではなかったと思います。

 

又、藩主が実際に切込焼工房を訪れて直接に多数の器を注文した記録もあり、丁度時代的にも伊達家による統治が終焉を迎えようとする中、藩主と御用達工房がより結束を強めようとした故にこそ、わざわざ加美の切込から遠く離れた北六番丁に移ることになった可能性も、無視できません。

 

この藩直営窯の北六番丁移転や藩主との結束の強化によって、切込焼には新しい可能性が開けた-と言いたいところではありますが、先述のように結論からいうと、切込焼は衰退していって事実上一度断絶してしまいます。

 

そうした衰退による一時断絶〜現代に至るまでについて今回書く予定でしたが、文章が長くなってしまいますので、(3)に後回し致します。

 

<参考>

切込焼記念館 - 加美町

 

幻の磁器「切込焼」について(1)

どうも皆様、少々ご無沙汰でした。

ところで、これはいわゆる日本スゴイ言説などでもよく利用される言説ですが、「日本では前近代から現代に伝わって、現在も現役で使われている伝統的な技術が多い」とよくいわれています。

 

しかしながら、実際にはそうした「前近代から現代に伝わり、現役を続けている伝統的な技術」の陰では、途絶えている(あるいは前近代からずっと現役だったように見えるが、実際には一度ロストテクノロジーとなり比較的新しい時代に復活した)伝統的技術も結構あります。

 

宮城県に伝わる焼き物(磁器)の「切込焼(きりごめやき)」も、まさにそうしたロストテクノロジーとなった歴史を持つ伝統的工芸品です。

 

切込焼は、現在の宮城県加美町の「宮崎」地区の「切込」という地区で作られてきた、要するに地名に由来する名を持つ焼き物です。

 

先日、さるバスツアーでこちら

http://www.town.kami.miyagi.jp/index.cfm/11,0,70,169,html

に行って参りました。こちらの館内は撮影禁止ですのでその切込焼の写真はないですが、グーグルなどの画像検索で「切込焼」と入力して検索して頂きますと、白地に青で絵付けされたものを始めとする魅力的な作品が多くヒット致します。

 

この切込焼は、一説には仙台藩伊達政宗が始めさせた産業だという説もありますが、信憑性は極めて薄いようです(こうした「政宗起源説」については色々な物事について語られているので、後で書きたいと思います)。実際にははっきりとした始まりの時期は不明ですが、恐らく江戸時代の終わり頃に起こったとされています。天保時代の終わりに最盛期を迎えていますが、幕末期〜明治初期に衰退しました(この衰退期についてや、大正期の復興運動については(2)で書こうと思います)。

 

 

 

 

2017年の仙台青葉まつりの簡単レポ

去る5月20日・21日には、仙台市で仙台青葉まつりが開催されました。両日とも、天気に大変恵まれ(むしろ暑いくらいでした)、大盛況のうちに無事閉幕致しました。

 

今年は仙台藩伊達政宗生誕450周年記念の年であることもあり、大変賑やかな2日間でした。青葉まつり政宗の命日(丁度今頃の時期だそうです)に行う祭礼としての側面もあるため、その日時に近い土日に開催されます。

 

20日「宵まつり」の夕方の定禅寺通りです。

f:id:seppatsumariko:20170525004737j:plain

f:id:seppatsumariko:20170525004753j:plain

このように灯りがつき、すずめ踊り(どんな踊りなのかご興味のある方は、「すずめ踊り 仙台」でネット検索することをお勧めします)などが行われました。

 

21日の「本まつり」ではいわゆる「時代巡業絵巻」及び「山鉾巡行」と呼ばれる大行列が、東二番丁通り〜定禅寺通りで行われました。 

 

 

これはまさに青葉まつりの目玉ともいうべき行事で、私も仙台に移ってから毎年大変楽しみにしております。

f:id:seppatsumariko:20170525005509j:plain

慶長遣欧使節ご一行です。東日本大震災後、支倉常長ら慶長遣欧使節が(東北地方を中心に)再評価され始めたこともあり、彼らは2013年度から(若干うろ覚えです。すみません)時代巡業絵巻に登場しています。このように「政宗の周囲の人物で、丁度注目されている人物」が題材にどんどん取り入れられるのも、青葉まつりの時代巡業絵巻の醍醐味です。

 

山鉾巡行も見逃せないですが、こちら

f:id:seppatsumariko:20170525010106p:plain

は中でも私が特に気に入っている山鉾の一つ「政宗公兜山鉾」です。

なお山鉾巡行に登場する山鉾は、青葉まつりが近付くと仙台市中心部のアーケード街(ここには藤崎百貨店などデパートも隣接しております)に並びます。その時の写真は、こちら

f:id:seppatsumariko:20170525010430j:plain

です。いかにも伊達文化の華といった雰囲気です。

以上、まとまりがないですが今年の青葉まつりについての記事でした。

仙台市街地に残る、江戸時代の運河について

昨年「ブラタモリ」で、仙台市内を流れる「四ツ谷用水」について取り上げて頂きましたが、実は仙台の市街地(特に東部)には、江戸時代の運河も残っております。

仙台市若林区に、「舟丁」という地名があります(なお、この舟丁には仙台駄菓子(これについても後で記事にできればと思います)の老舗「石橋屋」さんがあり、大変美味な伝統の駄菓子で有名です)。

この地名の由来は、江戸時代の極めて初期、藩祖伊達政宗が仙台を新しく建設した際、城や武士・庶民の住居用の材木を船で内陸部まで運び、又、その後も米などの物資を船で運んだことに由来します(これは仙台に限ったことではなく、ある程度歴史のある海に面した街ですと、「舟丁」やそれに類する「舟入町」「入船・入舟」等々の地名があるケースが、多々あります)。

この舟丁の周囲には、「染師町」という地名があります。これは、往時は運河に清浄な水が満ちていたため藍染に利用できたことから、藍染職人が多く居住する地域であったことに由来します。

話は変わりますが、仙台市若林区役所の敷地内には、小川のようなものがあります(写真参照。私の撮影です)。

f:id:seppatsumariko:20170409231811j:plain

これも、実は江戸時代に造られた運河で「七郷堀」といいます。よく見ると、運河が2つの流れに分かれていますが、ここが七郷堀の終点です。この分岐点のうち、向かって右側の流れが「仙台堀」、向かって左側の流れが「高砂堀」となります。

なお、高砂堀は現在暗渠化されていますが、この写真(私の撮影です)のように、突然地上に姿を見せている部分もあります。撮影した方向の反対側は、路地となっています。

f:id:seppatsumariko:20170409232305j:plain