本当は黒くなかった?「伊達の黒船」下
ところで「伊達の黒船」とよばれた、17世紀初めの仙台藩で建造されたサンファンバウティスタ号が実際には「黒い」色ではなかった可能性(なお補足しますと、当時のヨーロッパで描かれたサンファンバウティスタ号の絵の模写は、仙台市博物館にあるそうです)が非常に高いということですが、ではなぜ「黒船」とよばれているのか、気になってしまう方も多いことでしょう。
そもそもこの「黒船」の呼称は、幕末のいわゆる黒船との対照のため、後世(近現代)になってつけられた呼び名ではないかと、私は初め思っていました。
しかし実際にはそうではなかったのです。サンファンバウティスタ号は、建造段階から既に「黒船」と呼ばれていたことが、当時の記録からわかっており、しかもこの呼称を使った人物の一人が何と建造(と、慶長遣欧使節団の派遣)を命じた伊達政宗本人だったのです。
実は近世には、「黒船」という呼び名は必ずしも実際の船体の色とは関係なく、和船や中国などアジア文化圏の船と対比する意味で「西洋式の船」という意味で使われていた側面もあります。ですから幕末の黒船は、実際の船体の色が黒かったからだけでなく、こうした文化的背景もあるからこそこう呼ばれたともいえるわけです。
しかしながら、サンファンバウティスタ号建造よりも前に日本にやってきた西洋の船(ザビエルが来日した際の船や、リーフデ号など)が「黒船」と呼ばれた形跡は、わかっている限りではないようです。
このことからは、確証はないものの「黒船」という言葉を日本で初めて使った人物(の一人)は伊達政宗である、という可能性もないわけではないということがわかります。
なお、サンファンバウティスタ号に関する様々なトリビアの件は、宮城県石巻市にあるサンファン館
の学芸員さんに大変お世話になりました。