せっぱつまりこ’s blog

宮城県仙台市及び近郊を中心とした、東北地方の様々な情報について書こうと思います。

本当は黒くなかった?「伊達の黒船」下

ところで「伊達の黒船」とよばれた、17世紀初めの仙台藩で建造されたサンファンバウティスタ号が実際には「黒い」色ではなかった可能性(なお補足しますと、当時のヨーロッパで描かれたサンファンバウティスタ号の絵の模写は、仙台市博物館にあるそうです)が非常に高いということですが、ではなぜ「黒船」とよばれているのか、気になってしまう方も多いことでしょう。

 

そもそもこの「黒船」の呼称は、幕末のいわゆる黒船との対照のため、後世(近現代)になってつけられた呼び名ではないかと、私は初め思っていました。

 

しかし実際にはそうではなかったのです。サンファンバウティスタ号は、建造段階から既に「黒船」と呼ばれていたことが、当時の記録からわかっており、しかもこの呼称を使った人物の一人が何と建造(と、慶長遣欧使節団の派遣)を命じた伊達政宗本人だったのです。

 

実は近世には、「黒船」という呼び名は必ずしも実際の船体の色とは関係なく、和船や中国などアジア文化圏の船と対比する意味で「西洋式の船」という意味で使われていた側面もあります。ですから幕末の黒船は、実際の船体の色が黒かったからだけでなく、こうした文化的背景もあるからこそこう呼ばれたともいえるわけです。

 

しかしながら、サンファンバウティスタ号建造よりも前に日本にやってきた西洋の船(ザビエルが来日した際の船や、リーフデ号など)が「黒船」と呼ばれた形跡は、わかっている限りではないようです。

 

このことからは、確証はないものの「黒船」という言葉を日本で初めて使った人物(の一人)は伊達政宗である、という可能性もないわけではないということがわかります。

 

なお、サンファンバウティスタ号に関する様々なトリビアの件は、宮城県石巻市にあるサンファン

www.santjuan.or.jp

学芸員さんに大変お世話になりました。 

 

 

 

 

【番外編】宮城県に伝わる幻の磁器「切込焼」についての補足

以前こちらで何回かに分けて書きました、宮城県加美町に伝えられた磁器「切込焼」についての補足の記事です。

 

ところでこちら

日本本土決戦 知られざる国民義勇戦闘隊の全貌:独破戦線:So-netブログ

の記事には、太平洋戦争の際に物資不足のため現在ではいわゆる伝統工芸品として有名な幾つかの銘柄の陶磁器でも、手榴弾が作られた歴史があるというくだりがあります。

 

切込焼は太平洋戦争が始まる前に衰退していたので、わかっている限りでは手榴弾生産に動員されてはいなかったようですが、だからといってこの種のいわゆる軍需産業と無縁だったわけではありません。

 

明治維新の際の戊辰戦争では、切込焼の工房で粘土製(つまりいわゆる焼き物の)砲弾が作られたこともありました。

 

<参考>

切込焼記念館の展示

切込焼記念館 - 加美町

 

 

本当は黒くなかった? 「伊達の黒船」上

私事になりますが、私はこのブログを「はてなブログ」で書いております。そして同時に、「はてなブックマーク」もやっております。

 

seppatsumarikoのはてなブックマーク

 

そのはてなブックマークで、少し前にこんな記事をブックマークしました。

 

nlab.itmedia.co.jp

 

ところで実は幕末のいわゆる黒船で来航したペリーよりも約250年前に、もう一人の「黒船に乗った偉人」がいました。その人物は、仙台藩伊達政宗の家来であった支倉常長です。

 

常長は政宗の使節「慶長遣欧使節」としてヨーロッパに渡った人物でキリシタン(カトリック信者)ですが、帰国後はいわゆる禁教令のために表舞台から消されてしまっていました。彼についての記録が少ないのは、一つにはそのためもあります。

 

ところで先述のように常長も「黒船」とよばれた船「サンファンバウティスタ号」(仙台藩内で建造され、「伊達の黒船」とよばれています)に乗って太平洋を渡りましたが、このサンファンバウティスタ号も幕末のアメリカの黒船と同様、コールタールで塗装されていたのでしょうか。

 

結論からいいますと、コールタールは使われておらずそもそも「黒い」色ですらなかった可能性が非常に高いです。

 

第一、コールタールが船の塗装に使われるようになったのはそれこそ日本史でいう幕末の頃であり、政宗の(というか常長の)時代には、コールタール自体が日本どころかそもそも西洋でも作られてもいなかったもようです。

(続く)

仙台の古層について、私が興味深く思うこと

先日仙台の古層、特に仙台藩伊達政宗が「城下町としての仙台市街」を築く前の仙台については、仙台駅よりも東側により強く影響が出ているということを書きました。

 

これについては色々と興味深いことも多く、特に仙台駅よりも東側は戦時中も爆撃を余り受けなかったため「焼野原」化しなかったこともあり、前近代の建物や街並みが(大規模な爆撃を受けた)西側に比べより残っています(なお、西側でも大崎八幡宮周辺などは焼け残っており、往時の建物・街並みが割と残っています)。

 

その中でも興味深いのが、「墓地」の配置についてです。

 

西側では、仙台市中心部といえるような場所には墓地がなく、中心部からはやや外れた地域に配置されています。

 

例えば、JR仙山線北山駅界隈などがそうですが、近世〜近代初頭には仙台市街の外れに近い地域であったり、あるいは仙台市街には含まれなかった地域に集中して寺院や付属の墓地があります。

 

つまり西側では、墓地は一種の「ネクロポリス」的なものになっているわけです。

 

一方、東側では仙台駅により近い場所でも、様々なオフィスや店舗、民家(マンション)などと寺院や付属墓地が入り乱れて配置されています。

 

つまり東側では墓地はネクロポリス化していない傾向にあるわけですが、このことを西側と対比しますと、明らかに西側と東側は「墓地」が異なる思想によって位置付けられていると解釈できます。

 

なぜそうなのかは、私はまだ知りません。しかし大変興味深いので、注意して見ていきたいものです。

 

2017年仙台七夕まつり簡易レポ

去る8月6〜8日、仙台市仙台七夕まつりが開催されました。今回は、それの簡易レポ記事を書こうと思います。

 

このブログでも何回か書いておりますが、今年2017年は仙台藩伊達政宗生誕450周年の記念の年です。

 

そのため、実はルーツを辿ると政宗時代に遡り、且つ彼自身も七夕に関する和歌を複数詠むなど「七夕文化」を仙台に根付かせた功労者でもあるということも念頭に置かれた、ある「仕掛け(という表現も正確ではないですが)」が、今年の仙台七夕にはありました。

 

それは、こうした札が仙台市中心部の商店街・アーケード街に飾られた全ての竹飾りに付けられていたことです。

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続いてこちらは、仙台市中心部のメイン商店街の一つ「一番町商店街」の定禅寺通りに面した場所に飾られた飾りです。

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他にも様々な飾りが溢れかえっていました。ただ残念ながら、最終日8日は台風のために様々なイベントが中止になったり、先の写真の一番町商店街などのような屋根の下でない飾りはビニールを被せられたり、早々と撤去されたりなどしてしまいました。

 

しかしそれでも、仙台、更には東北を代表する祭りの一つであるため多くの人々が仙台を訪れていました。

又、最近はいわゆるトラディショナルな七夕飾りだけでなく、現代アートを連想させる飾りが出ることでも、私は注目しております。

ちなみに今年は、こうした飾りでした。

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よりアップで撮影したのがこちらです。

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こうした「新型七夕飾り(私の勝手な命名です)」を見るのも、私にとっては仙台七夕まつりの楽しみの一つです。

仙台の古層に関する色々な物事について

ところで、仙台という街は戦国時代の終わり(江戸時代の極めて初期でもあります)に今の宮城県岩手県の一部を統治した領主であった伊達政宗仙台城を築城し、城下町を築いたことによって「歴史」が始まった、というようなイメージがあります。

 

無論現代の仙台市の原型が確立したのは、政宗による仙台城築城・城下町建設による点が極めて大きいといえます。

 

しかしながら、政宗以前の仙台(=古代〜中世の仙台)も、色々と興味深い点があります。

 

現在の仙台市の中心部といえるような地区(=宮城県庁や仙台市役所、藤崎百貨店や三越仙台店のような戦前からあるデパートなど様々な重要・大規模な施設・会社がある地区)は、JR仙台駅よりも西側に位置しています。これは、政宗青葉山仙台城を築いたことにそもそもの理由があることです。

 

つまり、JR仙台駅よりも西側にある地区の都市としての発展は、いわば政宗が仙台入りしたことによって始まったという面が強いわけです。

 

しかし実は政宗以前には、むしろ仙台駅よりも東側の地区の方が発展しており、実際、政宗以前の時代の史跡や古い歴史を持つ神社仏閣はこちらに多くあります。例えば、創建が奈良時代陸奥国国分寺は現在の仙台市営地下鉄東西線薬師堂駅の名の由来でもあり、そこから余り遠くない場所にあります。

 

そして更にいうと、政宗も城を築く場所の第一希望は現在の仙台駅の東側〜JR仙石線榴ヶ岡駅の近くである「榴岡(つつじがおか)」であった、という説もあります。実際、彼が晩年に住んだ「若林城(政宗の没後に取り壊されました。現在この跡地は刑務所であり、「古城(ふるじろ)」という地名が残っています)」は東側の地区にありました。

 

又、近世のいわゆる街道は西側の地区を通っています(芭蕉の辻など)が、古代〜中世に使われた街道は東側(現在の若林区役所や仙台市営地下鉄東西線連坊駅薬師堂駅などの比較的近く)を通っていました。

 

他にも、こうした「仙台の古層」に関する色々と興味深いことはありますので、これらのことについても、今後書こうと思います。 

いつになるかまだ不明ですが、もし書けたら書きたいテーマの覚書き的なもの

どうも、ご無沙汰しておりました。

今回は「いつになるかはまだ不明ですが、もし書けたら書きたいテーマ」の覚書きを書こうと思います。中には既に今までの記事の中で、「ゆくゆくは書きたいと思います」などど言及したものもあるかも知れませんが、ご了承頂けますと幸いです。

 

1.福島県郡山市に複数ある、「○○坦」系の地名について

福島県郡山市内には、「○○坦(だん)」という地名がかなりの数あります。

これはどんな意味なのか、どんな歴史的背景があるのか等々について、大変関心をそそられております。

 

2.「伊達政宗起源説」の数々について

宮城県の様々な特産品や工芸品、特に近代になる前からあったものの中には、「仙台藩伊達政宗が、経済政策の一環として当該の特産品を生産することを、藩の民衆に奨励した」などの通説が語られているものが、幾つかあります。

しかし、それらの中には歴史的にみると信憑性がかなり低いものが結構あります。

一方、こうした「物事の起源」に「歴史的偉人が絡む」タイプの通説は「偽史」というよりはむしろ一種の「神話」ではないか、という視点で見ることも時には必要ではないか、とも私は思います。

 

3.幻の仙台弁「すんどい」について

仙台弁の中には、非一般的な言い回しではありますが実は「すんどい」という言葉があります。

これは、近畿方言からいわゆる「共通語」に取り入れられて久しい言葉「しんどい」の転訛であることがわかっています。私は個人的にこの転訛が気に入っていますので、これについても書きたいと思います。